「日月神示」とは、日本に降ろされた神秘的なスピリチュアル・メッセージを記した文書です。昭和19年(1944)6月10日、画家の岡本天明が自動書記によって書き始めたもので、彼の意思とは関係なく、文字を書かされる形で生まれました。この現象は千葉県の麻賀多神社で起こり、後に「日月神示」として知られることになります。
「日月神示」の原文は、数字や仮名、記号が入り混じった非常に難解な形式で書かれており、一見して理解することが困難です。しかし、解読が進むにつれて、日本と世界に関する予言や、人々が歩むべき道、政治や経済の未来、健康や開運の方法など、幅広い内容が書かれていることが明らかになりました。
ただしその内容は、読む人の器というか、魂の状態によって微妙に変わります。日月神示をどう読み解き、自分のものにするかは、その人次第なのです。今回は「日月神示」が示す未来予測や、個人と社会がどのように変わっていくべきか、その核心に迫っていきたいと思います。それでは、具体的な内容を見ていきましょう。
もくじ
第一章「人生訓、ミタマ磨き」
真理を知って、良くならなかったら、省みてください。
良くなるのが真実なのです。
悪くなったとしたら、よく考えなければなりません。
善人が苦しむことはあるものです。
よく考えてみてください。
長い目で見て、良くしようとするのが神の心です。
目の前のおかげでなく、
永遠の立場から良くなるおかげが、真のおかげなのです。
まずは身魂を磨かせ、その人が神のおかげを受け取れる「器」を作ってから、おかげを授けるのです。それには時間も手間もかかりますが、必ずそうなります。今は辛いとしても、それは神が、真のおかげを受け取らせるために、鍛えてくださっているのです。
良きことは 人にゆずりて 人をほめ
人たてるこそ 人の人なる
誰しも良いことは自分の手柄にして褒められたいと思うものですが、そこをあえて人に譲って、その人を立ててあげるのです。それも、嫌みにならないように、さりげなく、自然な形で。そういう人は、逆に人から引き立てられるようになります。
神と金と二つに仕えることはできない、そのどちらかに仕えねばならないと、
今までは説いて聞かせていましたが、それは段階の低い信仰であったのです。
時節が来ていなかったためにそう説かせていたのですが、
この度、時節が到来したので、本当の道理を明らかにしているのです。
神と金、両方に仕えるということは、
肉と霊と共に栄えて”嬉し嬉し”となることです。
”嬉し嬉し”というのはそういうことでもあるのです。
神と金の二つとも得ることができれば、嬉しいでしょう。
これが本当の正しき神の道なのです。
あくまで、自分の人生をまっとうに生きていく中で、神(信仰)も得ながら物質的富を得ることこそが最良の道であり、本当の神の道なのだということです。
流れる水にも、空に浮かぶ雲にも、道端に咲く花にも、神の御心があります。
それを見る目がないからわからないだけなのです。
掃除すればわかります。まずは掃除をしてください。
拝むのは、拝まないよりはましです。
しかし、拝んでばかりでは、病気は治りません。金も儲かりません。
拝むばかりで金儲けができたり病気が治ったりすると思ったら間違いです。
道に勤しんでください。道行くところに喜びがあります。
喜びがあるから、病気も治るのです。金も出てくるのです。
おかげがあるということです。
喜びこそが神なのです。
自然界のあらゆるところに神はおり、神のメッセージはあふれているのです。現代人は、そういうことを感じる力がなくなってしまいましたが、完全に失われたわけではありません。身魂を掃除(磨く)すればまたわかるようになります。だからまずは掃除が第一と言うのです。
道に勤しむというのは、神の道を実際に自分の足で歩むということです。本を読んだり、人の話を聞いたりして感心するだけではなく、自分の足で歩んで行く。そして何があっても歩み続けるということです。そうしていくうちに、やがて人生が開け、喜びが湧いてきます。この喜びが「神」です。
出足の港は夫婦の道からです。
これが乱れると世が乱れます。
神界の乱れもイロからなのです。
男女の道が正されない限り、世界はちっとも良くはなりません。
今の世の様を見て、早く心を改めてください。
神の道に立ち還るために、何から始めればよいかというと、一つは食を改めることです。もう一つは、男女の道を正すことです。夫婦であれば、まずは夫婦和合が基本です。そのことを神示は、「出足の港は夫婦の道から」という表現で言っているのです。
第二章「食、健康、美」
牛の食べ物を食べると牛のようになります。
猿は猿、虎は虎となります。
人間の食べ物は決まっているのです。
いよいよとなって、何でも食べなければならないようなことになったら、虎は虎となります。
獣と神とが分れることになるのです。
縁のある人たちに知らせてあげてください。
日本中に、世界中の人たちに、知らせてあげてください。
人間は雑食であるというのが通説ですが、本来、何でも食べていいわけではなく、そこには天から定められた「食律」というものがあるということです。この食律が乱れて、何でも食べなければならないような世の中になった時、「神」と「獣」に分かれるということです。
四足動物を食べてはなりません。
共食いとなるからです。
草木から動物が生まれるのです。
人間の正しい食べ物とは、五穀野菜の類なのです。
「四足動物」というのは、言うまでもなく、牛や豚、羊、猪、鹿といった四本脚の動物たちのことです。鳥(鶏)はどうなのかというと、羽も勘定すれば四本脚と同じです。これらはすべて、食べてはいけないものであり、食べると食律に反することになります。
神に深い縁のある人の食べ物は、「五穀野菜の類」であると明確に示されています。
五穀の定義には決まったものはありませんが、米、麦、粟、黍、稗といった穀類や、大豆や小豆などの豆類を指します。野菜は、葉菜や根菜などや果物。海藻類も入るでしょう。
「一二三の食べ物に病なし」です。
「一二三の食べ方」は、一二三と唱えながら噛むのです。
四十七回、噛んでから呑むのです。これが一二三の食べ方、頂き方です。
神に供えてからこの一二三の食べ方をすれば、どんな病でも治るのです。
皆さんに広く知らせてあげてください。
心の病は一二三を唱えることによって治り、
肉体の病は四十七回噛むことによって治るのです。
心も身も別々のものではないのですが、
人間にわかるように言って聞かせているのです。
取り違いしないようにしてください。
「一二三を唱える」というのは、「ひふみよいむなやこと……」という、日本語四十七音の配列で、「いろはにほへと」の並べ替えです。これを祝詞として唱えるものを「ひふみ祝詞」と言います。
食べ物を頂く時は、よくよく噛むことです。
噛むことはカミ(神)に通じます。神に供えてから噛むのです。
上の歯は火、下の歯は水、火と水と合わせて火水(カミ)となります。
噛めば噛むほど神となるのです。
噛むと力が生まれます。血となり、肉となるのです。
一二三の食べ方を心得たら、今度は気分ゆるやかに、
”嬉し嬉し”で食べるようにしましょう。
これが天国の食べ方です。
最初は形から入るものなので、ただ漫然と(あるいは多少無理をしながらでも)噛むというのもいいのですが、本当は、嫌々ではなく、心からの喜びをもって「美味しく噛みながら、感謝で頂く」ことが大切です。これが天国の頂き方だと神示は言うのです。
一二三祝詞とは
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ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけの日本語四十七音を祝詞にしたものです。
正式な奏上の仕方は、軽く拍手を打ちながら、三五七、三五七のリズムに区切って奏上します。最後の「れ」と「け」だけ一音分長く伸ばします。これを三回繰り返します。(〇は軽い拍手)
ひふみ よいむなや こともちろらね
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
うおえ にさりへて のますあせゑほ れーけー
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
ひふみ よいむなや こともちろらね
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
うおえ にさりへて のますあせゑほ れーけー
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
ひふみ よいむなや こともちろらね
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
うおえ にさりへて のますあせゑほ れーけー
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
第三章「神様と神道の世界」
神様でも大神様のことはわからないものです。
ただ、喜びに向かってひたすらに進んでいけばよいのです。
正しい喜びをまず見極めなければなりません。
見極めて、ひたすらに進んでいけばよいのです。
神様がわかるようになれる最短の道があります。神の本体は「喜び」ですから、ただ「喜び」に向かっていけばよいのです。
「正しい喜び」とは、誰にとっても、どんな存在にとっても喜びとなるものが本当の「喜び」です。食べるという行為であれば、食べる方にとっても食べれる方にとっても「嬉しい、美味しい」となるのが「正しい喜び」です。
こうした「喜び」を見極めて、ブレずに、ひたすら「喜び」の行為を積み重ねていけばよいのです。
秩序、法則は、神そのものですから、
神自身もこれを破ることは許されないのです。
すべては大神の歓喜の中に存在しています。
歓喜によって秩序があり、法則があり、統一されているのです。
神示によれば、神とは秩序であり、法則そのものなのです。マクロにおいては天体の運行、ミクロにおいては原子、素粒子の運動も、すべてに秩序があり、法則があります。それそのものが神の姿であり、現れなのです。
そして、そうした秩序や法則というものは、すべて「歓喜」にもとづいてます。大神様は歓喜そのものですから、歓喜によって秩序があり、法則があり、統一がなされ、整然と運行されているのです。
神は神の中に宇宙を生み給うたのです。
神は宇宙を創り給わず、と以前から伝えておりますが、
このことをよく考えて、よく理解してください。
大切な分かれ道です。
神はご自分の外側に宇宙を創ったのではなく、ご自身の中に宇宙を「生んだ」のです。
ここが従来の一神教とは決定的に違うところです。外側に創ったのであれば、別々のものであり、気に入らなければまた壊してしまえばいいということになりますが、内側に生んだわけですから、この世のすべては神の現れであり、すべては神の分身ということになります。
自然界も神様のお体の一部であるわけですから、人間が利用する場合は、これを尊びながら、大切に使わせて頂かなくてはならないのです。ここが理解できるかどうかが、大切な分かれ目となります。
今までは悪の世であったので、自分を殺して他人を助けることを、
この上もない天の一番の教えとしていましたが、それは悪の天の教えです。
自分を活かし、他人も活かすのが天の道であり、神の御心なのです。
他人を殺して自分が助かるのも悪ですが、
自分を殺して他人を助けるのも悪です。
神を無きものにして人間だけで生きようとするのも悪ですが、
神ばかりを大切にして人間を放っておくのも悪なのです。
神人共にと伝えてあるでしょう。
神は人によって神となり、人は神によって人となるのです。
まことの神の御心が、これでわかりましたか。
今までの教えは間違っていたことが、だんだんわかってくるでしょう。
「自分を殺して他人を助ける」というのは、自己犠牲のことです。自己を犠牲にしてまで他者を救うというのは、誰にも簡単にできることではなく、最も崇高な行為であると考えるのは、おそらくどこの国の人でも同じだと思います。
しかし、日月神示では、自己犠牲は否定されるのです。自分を殺して他人を助けるのは、「悪」だと言います。自分も他人も、両方生きる道があり、活かすやり方がある。それが最も尊い行為とされるのです。
自分を良くしてくれと言っていますが、
それは神を小使のように考えているからです。
大きくなりなさい。
わざわざ遠いところへお詣りしないでも、自分の家に祀ってあるのだから、それを拝めば同じことだ、それでいいんだと理屈を言う人もいますが、
格の上のところへ求めて行くのが仁義、礼儀というものです。
神示には、「始めは自分本位の祈りでもよい」「拝むのは拝まないよりはましである」といって受け入れてくださっています。しかしいつまでも、そんな子供じみた、初歩の段階にとどまっているべきではありません。自分のこと以外のため、世のため人のために祈ることが、神に通じる正しい祈りです。
それから、自分の家にも神棚があるんだから、わざわざどこかの神社までお詣りに行く必要はないというのは間違いだと神示は述べています。この肉体界に生きる私たちとしては、わざわざ時間とお金をかけてお詣りに行くことが大事なのです。神様はそれを「仁義、礼儀を尽くしている」と受け止め、愛でてくださるのです。
第四章「あの世とご先祖の話」
死後の世界に入った最初の状態というのは、
生きていた時とほとんど変化はありません。
先に霊人となっている身内や知人と再会し、
共に生活することもできます。
夫婦の場合は、生きていた時と同様の夫婦愛を、
再び繰り返すこともできるのです。
死んだ直後、肉体から離れて間もない状態というのは、ほとんど生きていた時と変わりはありません。自分で自分の体をさわった感触も、同じなんだそうです。なので、死んだらそれで終わりだと思っている人は、自分が死んだことに気づかないのです。
霊界に行けば、波長が合う者どうしであれば、過去に死んだ親族や友人と共に生活することができるようです。また、似た者どうしの夫婦であれば、霊界において再開し、また一緒に暮らすこともできるそうです。生前、価値観があまりに違って、争いが絶えなかったような夫婦であれば、霊界で再会することもないでしょう。
霊界というのは想念の世界ですから、時間もなく、空間もなく、想念のままになるのです。しかし、そのような死後の最初の状態は、長くは続きません。
なぜなら、想念の相違は、その人の住む世界を相違させ、その波長に合った世界以外は、想念の対象とならないからです。
しかし死んだ直後の最初の状態は、生きていた時の想念、情動がそのまま続いているために、外部的なもののみが強く打ちだされています。
そのため、一時的に外部の自分にふさわしい環境に置かれるわけですが、次の段階に入っていくと、外部的な自分は次第に薄れていき、内分の状態に入っていくのです。
霊人の本来の姿というのは、内分にありますから、この段階に入って初めて本来の自分に還るのです。
死んだ後のプロセスを言いますと、死んだ直後には、まず、現実界と霊界との間の中間的な世界、あるいは状態に入ります。この段階では、まず霊体そのものになっているわけではなく、霊体の外側にもう一つの体(外部的な自分)をまとっています。死んで間もない時は、生きていた時のままの心の状態が続いており、肉体と霊体との間の中間的な体を持っています。
その次の段階になると、この中間的な体が次第に薄くなっていき、霊体となって霊界に入ります。そうなった時の自分が、真の自分なのです。
天国は霊人のみの住むところではないのです。
あなたたちも今、住んでいるではありませんか。
霊人も、現実界に住んでいるではありませんか。
現実界と離れた、天国のみの天国というものはないのです。
だからこそ、現実界で天国を生みだすことができず、
現実界において天国に住めないような人が、
死んでから天国に住めるという道理はないのです。
結局、霊と体は一つですから、霊界も現実界も一つであり、別々のものではないということです。したがって、あの世もこの世も、連続性のある中に存在するのです。天国的な生き方の延長線上に、霊界における天国的な世界があります。地獄的な生き方をしてきた人が、死んだら天国的世界に行くということはありえない、ということです。
ここで言う地獄的というのは、真の地獄ではなく、あくまで相対的に見た地獄的世界という意味です。傍から見た時に地獄のようであっても、その世界に住む霊人にとっては、そういう世界の方がラクなのであり、天国であるということです。
霊的良識は、神示や神典類によって、
また体験によって養われます。
また高度な科学書も参考となるものです。
科学を馬鹿にしてはなりません。
高度な神界から降ろされた神示・神典類と出会うことも、縁であろうと思いますが、そうした本を読んで正しい知識を得つつ、自分でも人生に活かし、体験することで、初めて身につくわけです。
宗教スピリチュアルな分野だけでなく、高度な科学書も参考になるとあります。その意味では、最先端の物理学や量子力学など、科学に関する本を読むことも有益です。
霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、いろいろな社会があり、霊界の生活があります。したがって、そこには霊人の住宅があり、霊人はまた衣類を持っています。住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化します。
霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、といったふうに、現実世界とほとんど変わりはありません。ということは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であるということを意味しています。
また、内分を同じくする霊人たちは、互いに集まり、住宅は並び建てられており、地上における都会や村落とよく似ています。その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校など、あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいます。
そして、これらのすべてが霊界に存在するために、地上世界にはその写しがあるのです。
霊界を主とし、霊界に従って、地上に写しだされたのが、地上人の世界なのです。
地上界と霊界は合わせ鏡であり、霊界の写しが地上界なので、霊界にあるものは地上界にもあるのです。
つまり、霊界にも地上界同様、普通の住宅があるし、そこでの生活があります。風呂場もあるし、寝室もあるし、トイレまであるというのは、よくわかりませんが、あるんだそうです。
ー>私は高校生の時、幽体離脱を経験したことがあります。その時は寝ている時だったため、寝巻き姿のままでした。正直なところ、「着替えることはできるのだろうか?」という心配をしていたので、衣類があると知って安心しました。
第五章「私たちの未来と予言」
残った人の身も一度は死ぬこともあります。
死んでからまた生き返るのです。
三分の一の臣民になります。
これからがいよいよの時なのです。
日本人どうしが食い合いするようになります。
これはかなわんと言って外国へ逃げて行く人も出てきます。
神にしっかりと縋っていないと何もわからないことになりますから、
早いうちから神に縋っていなさい。
神ほど結構なものはないのです。
経済は麻痺し、交通機関やインフラがストップすれば、アッという間に食糧危機が起きます。日本人どうしが食い合いをすると神示にありますが、そのような地獄絵図さえ、有り得るというのです。これはかなわん、もう無理だと言って、外国に逃げて行く人もいるけれども、外国に逃げたらもっと酷いことになるのだそうです。つまり、逃げ場などどこにもないのです。
そんな状況の中で、頼れるのは神だけになると言います。神ほど結構なものはないと。
神なんて目には見えないし、食べてお腹を満たすこともできませんが、神に縋り、神に身を委ねてさえいればすべてはうまくいく。そう神示は断言するのです。
地震、雷、火の雨を降らして大洗濯をするのです。
よほどしっかりしないと生きては行けません。
神憑かりがたくさん現れて、わけのわからないことになってきますから、
早くこの道を開いて、教えてあげてください。
海の津波に気をつけるように。
事前に知らしてあげます。
地震や雷というのはわかりますが、火の雨とは何でしょうか。火山噴火のことかもしれませんし、戦争による爆弾やミサイルのことかもしれません。とにかく、天災や人災を含めていろいろな災難が起きるようですが、これらはすべて、この世の「大洗濯・大掃除」のためなのです。
海からの津波も起きてくるでしょうけれども、必ず事前に警告があります。この神に縁のある人は救うと言っているわけですから、素直に神に心を向けてさえいれば、その人にはわかることでしょう。津波だけでなく、地震についても同様です。
富士山はいつ爆発するのか、
どこへ逃げたら助かるのかという心は、自己中心です。
どこにいても救う者は救うと伝えてあるでしょう。
悪いことを待つ気は悪魔の気です。
善い心が善いものを生むのです。
富士山いつ爆発(噴火)するんだとか、次の大地震はいつどこで起こるんだとか、どこへ逃げれば助かるんだという人は多いはずです。おそらく、ほとんどの人が、神様が本当にいるならそれを教えてくれと言うでしょう。
しかしそういう情報を聞いて、自分が真っ先に助かろうとするのは”我れ善し(自己中心)”だと神示は言います。こういう人こそが、淘汰される対象です。
神様の道を真面目に歩んでいるまことの人であれば、どこで、何をしていても必ず神が護るから心配ないというのです。いざという時に、本当に肚ができているかどうかが試されるのです。
空に変わったことが現れたら、
地にも変わったことがあると思っていてください。
いよいよとなって来ているのです。
神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、
一人でも多くの人間を助けたいのでお願いしているのですが、
もうおことわり申し上げる術がなくなってしまいました。
いよいよ地球の大掃除が始まるという段階になったら、まず空に変わったことが現れると言います。それに続いて、地上にも変わったことが起こるというのです。「変わったこと」とは何か。神示は具体的に示していませんが、時は迫ってきているようです。
神様の世界の「時間」と、地上界に生きる私たちの時間の感覚に、どこまでギャップがあるかはわかりませんが、あと数十年以内には、神示の予言が実現することになるかもしれません。そのサインは、まず「空」に現れるということです。
神の国は、光りだして目をあけて見られないようなことになります。
人間の身体からも光が出るのです。
その光によって、その人の御役や位がわかるようになりますから、
ミクロの世となったら何もかもがハッキリして、
嬉し嬉しの喜びの世となるのです。
今の文明はなくなるのではありません。
魂が入って、いよいよ光ってくるのです。
草木も動物たちも、みんなで手握り合い、歌うこととなるのです。
日本の国はいったん潰れたようになるし、世界もまた人口が激減するほどの大きな変動を経験しますが、その試練を通過した後には、ミクロの世が訪れます。その時、日本は神の国として甦り、国全体が光を放ち、まぶしくて目をあけて見られないほどになると言います。
人間の身体からも光が出るというのは、おそらくオーラのことだと思われますが、それが誰の目にも見えるようになり、その光の種類によってその人の御役や位が判別できるようになるというのです。
そして、植物も動物も、みんなが手をつないで歌うような、大調和の世界が実現することになる。それこそがミクロの世であり、地球社会のあるべき姿なのです。
神示が一貫して言っているのは、自分自身の内側の立て替えであり、立て直しです。自分の内側に天国が顕現すれば、外側にもその状態が現れる。死した後もそのまま、おのずから天国に住むというのです。
したがって、いかに自分の内側に天国を顕現できるのか。これにかかっています。そういう人が増えていけば、意外に簡単に、地球社会は天国化されていくのではないでしょうか。
というわけで、今回は以上です。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます😌🙇